この景色が見たかった

『なんでわざわざそんな所に行くの?』

 

年に数度は旅行に行くようにしている。日頃から誰かと話すことが仕事だからか、その反動で出来るだけ人が少ない場所に行きがちだ。旅行に行ったからといって特段にアグレッシブに動き回ることはしないし、積極的に名所巡りやグルメツアーをしたりもしない。現地をぶらぶらと歩いて、昼間からお酒をちびちびと飲み、地元の人が利用するお店でご飯を食べて、たまに誰かと仲良くなってはあれやこれやと話して一日を終えるような生活を一週間ほど続ける。

普段の生活圏だとどうしても自分の役割を演じないといけないシーンが出てくる。勿論それが正しいか正しくないかという問題もあるが、大人ならば社会人としてのロールプレイングゲームのコマとしてその場に適切な役づくりを毎日求められることは、大なり小なり誰しも経験しているはず。それは社会で生きていく上で必要なことだが、たまに発狂したくなるくらい息苦しくなってしまう。そのタイミングで僕は旅に出る。出来るだけ人が居なくて、出来るだけ電波が届かなくて、そして出来るだけ行きにくい僻地に行く。その条件を満たしていればいるほどに心が休まる気がするので。自分のことなど誰一人知らない場所に身を置いた時に、初めて開放感を得られて心から深呼吸が出来た気になれる。演じない時間って時には必要だし必ず必要。

ヘンテコな場所に旅行することが多いからか『面白い旅行先ってありますか?』と訊かれることも最近増えてきたので、返答の代わりとしてこの記事を書いている。機会があったら訪れてみてほしい。価値観は人それぞれだと思うけれど、少なくとも僕の心には響いた場所だから。

 

前述した通りいつもヘンテコな場所にばかり旅をしがちだからか、結構な頻度で訊かれるのが『オススメの旅先は何処か』ということだが、ごく稀に『今まで行った中で一番行き難かったのは何処か』という質問をもらうことがある。リゾート地に行くわけでもなく、名所にも訪れず名産を食べまわるわけでもないのに、何故こんな行きにくい場所に行くのかを理解してもらえた試しがあまりない。妻にすら理解されない。だから結局は一人旅になる。それでも見たい景色があって、そこに泊まりたい宿があれば、僕はどこにでも旅行に行くと思う。それが旅に出る原動力だから。

話を戻すと、今までの旅行で一番行き難かったのは隠岐諸島のEntoというホテルだ。隠岐ジオパーク内に面白いホテルがあることをTRANSITという雑誌で知って以来、どうしても訪ねてみたくなって重い腰を上げて出向いてみた。腰が重くなった理由はたった一つで、とにかく行きにくい場所にあるからだ。僕の場合は片道9時間かかった。念の為言っておくと、隠岐諸島は日本の島根県にあるので、れっきとした国内旅行だ。それでも9時間かかる。

 

東京近郊にお住まいの方だと、Entoに行く際はまずは羽田空港から出雲空港にフライトする必要がある。出雲空港からはプロペラ機に乗って隠岐ジオパーク空港に飛び、空港から西郷港までバスで移動。西郷港からはフェリーで菱浦港まで行くことになる。羽田から隠岐ジオパーク空港まで直通便が出ていることがあるが本数が少ないので、関東にお住まいの方は大体が僕と同じ移動経路になる。乗り換え4回で、うち空の旅2回と船旅1回を9時間の旅程の中でこなすストロングスタイル。僕でなくてもここに行くかどうか考えた際には腰は重くなるはずだ。

 

脅し文句ばかりつらつらと書いてはいるが、移動時間中は退屈することは殆どないと思う。旅行の最大の面白みは非日常体験だと思うので、特にフェリーでの船旅は心躍るひと時だ。海の色が関東の海とは全然違うし、船上も人が少なく頗る快適。船旅自体は1時間ほどだが、好きなだけ海を見ながら過ごす時間は非日常体験の最たるものだと思う。海面が太陽の光を受けてキラキラと反射するのを見ているだけでも楽しいので、ぜひ存分に堪能してほしい。

 

このEntoというホテルの一番の魅力が客室からのオーシャンビューだ。オーシャンビューという言葉では生ぬるいくらい、全面ガラス張りの客室から目の前の海の景色を見ることができる。目の前を頻繁に船が行き来するので、それを見ているだけでも飽きることはない。僕は写真の椅子に座って、ホテル内の図書館から貨りた本を読みながら滞在中は殆どの時間を過ごした。窓にカーテンはあるが閉めないのがオススメだ。心配しているほどには外から見えないが、安心しているよりは意外と見えてしまうけれど、堂々としていればどうということもない。

 

室内のシャワースペースもスケスケで、ブラインドを閉めてしまえば外からは見えないと分かっていながらもかなりソワソワした。館内には大浴場があって温泉も楽しめる。広々とした湯船で頗る快適なので、僕は毎日通い詰めていた。

 

ホテルの目の前には歩道が整備されていて、少し歩くだけでも天国みたいに綺麗な景色を拝むことができる。滞在初日にこの景色を見た時には、片道9時間の移動の疲れなんて消えてなくなってしまったくらい。それくらい綺麗な日の入りだった。

 

カメラが趣味ということもあって、自分が見たい景色を写真に収めたいという気持ちが人よりは強いと思う。雑誌で見たたった1ページの写真が気になって、結局はその景色を確かめるために来てしまった。隠岐諸島の西ノ島という場所だ。Entoのある中ノ島からは船で移動する。

 

この景色を見るために遥々やってきた今回の旅の目的地。西ノ島にある摩天崖という景観地だ。写真からも分かるように、断崖の上にある放牧地だ。海が広くて空も高いので遠近感が分からなくなりがちだが、馬の大きさと比較してもらえればその広さが何となくでも把握してもらえると思う。僕はこんなに大きな空を見たのは人生で初めてだったし、それを日本国内で見れてしまうとは思ってすらいなかった。目の前に広がる景色に脳の処理速度が追いつかず暫くの間立ちつくしてしまったくらいだった。広大な放牧地の中で放し飼いされているからか、馬や牛が気持ちよさそうに行き来しているのを見ているだけでも癒される。ちなみに殆どの場所に柵は無いので、飛び降りようと思えば簡単に飛び降りてしまえる場所でもあるので、気を付けて歩いてほしい。

 

現実感がない光景だと訪れてから暫く経った今でも思う。この景色を拝むことが出来ただけで、もう旅行の目的の8割は果たせてしまえた。そう感じるくらいには素晴らしい時間だった。

 

摩天崖に行くにはキツく険しい山道をひたすらに登らないと行けない。僕は自転車でここまで行った。港でレンタサイクルを借りることが出来るが、電動で一番高性能な物をレンタルすることを強くオススメしたい。電動無しでこの山道を走破するのは少なくとも僕は不可能だ。電動自転車なら体力が平均以下の僕でもギリギリ目的地まで登ることが出来たので、おそらく人族なら誰でもここまで来れるはず。登っている最中はずっと弱虫ペダルのクライマー勝負のシーンを思い出していたくらいには過酷な山道なので、割と気合を入れて訪れてほしい。レンタカーもあるが摩天崖近辺は道幅がかなり狭いのと、放牧地なので道路を牛の行き来することが頻繁にあるのでドライビングテクニックは必要だと思う。少なくともペーパードライバーの僕には無理だった。往来で人に出会うことは殆どないけれど、牛や馬に出くわすことが沢山あって、それも含めて西ノ島での自転車旅は頗る思い出に残るものになった。

 

隠岐諸島滞在中に困ったのが美味しい珈琲が飲める場所が極端に少ない点。そもそもコンビニがなく、個人商店すら数える程しかない。その環境で美味しい珈琲を手軽に飲めると思う方がどうかしているが、それでもやっぱり美味しい珈琲が飲みたくて探し回った。Sailing Coffeeに出会えたのは本当に僥倖だった。魔天崖まで自転車で登った後だったこともあってか、ここで飲んだ珈琲の味が未だに忘れられないくらい美味しかったことを今でも覚えている。久しぶりに美味しい珈琲にありつけたことが嬉しくておかわりしてしまったくらい。

 

魅力的な場所が多く、島ならではのゆったりとした時間の流れを味わうことが出来る隠岐の旅は、行きにくいからこそ得られる等価交換のような経験なんだと思う。島での時間を満喫するには少しばかりのコツがいるので、もし良ければ聞いて欲しい。僕は成功も失敗もどちらも含めて旅行体験だと思っているので、きっとあれやこれやとお伝え出来る気がしている。