『何もしないをしに行きたい』
何もしない時間が欲しい。自分のことを誰も知らない場所で、生産性のあることなんて一切せず、好きなものを食べて、好きな本を読んで、適当に散歩をして、夜は早いうちに寝てしまう。そういう生活を一週間くらい続けていると心身ともにリラックス出来る瞬間が必ず訪れる。そのリラックスを得るためだけに、僕はわざわざ旅行に出かける。人混みは避けたいから名所なんてなくても良いし、人混みを避けたいからこそ出来る限り行きにくい場所が良い。
心身ともにリラックス出来る旅行になるかどうかは宿泊先に依るところが大きいと常々思っている。そしてリラックス出来るかどうかに価格はそれほど関係ないとも思っている。別に五つ星ホテルに泊まりたいわけではないし、スイートルームも必要ない。けれどおこもりに適した快適なしつらえは絶対に必要だ。僕は基本的に滞在中は宿泊先から殆ど外に出ないし、名所巡りにそれほど時間も割かない。宿の中でぼーっとして時間を過ごしたり、持ってきた読みかけの本を読んだりして数泊を過ごす。だからこそ宿の中が寛げる空間であるかどうかはものすごく重要になる。旅行の予定を決める際は行きたい場所から探すことはせずに、泊まりたい宿のためにその土地に赴くという流れで計画を経てていく。それくらい宿泊先で滞在する時間を大切に考えている。
どんな選定基準で宿選びをするかというと、出来るだけ人の気配を感じず、周辺も静かな場所であることを何よりも重視する。少なくともこれを欠かすと僕はリラックスして宿の中で過ごすことが出来ない。無心になってただぼーっと過ごすためには静寂が必要で、それは日常生活の中で(少なくとも東京で働いていると)なかなか手にいれることは難しい代物でもある。だから僕はお金を使ってその静寂を買うし、静寂のためなら喜んで僻地まで時間を使って足を運ぶ。
僕がここ数年で滞在した沢山の宿泊先の中で、特にリラックスできたいくつかの宿を紹介したい。僕は基本的に一人旅なので、一人で快適に寛げるかどうかを一番の選定基準として宿を選んでいる。そのため今から紹介する宿も一人旅での利用を強くお勧めする。アクティブに動くことだけが旅行ではない。何もしないをしに行く旅行も良いものだということを伝えたい。

HOTELLI aalto(福島)
福島裏磐梯にある『aalto=波』の名前を持つHOTELLI aaltoは、滞在中はオールインクルーシブで過ごすことの出来るホテル。そこそこの僻地にあるが車がなくても公共交通機関の乗り継ぎで行くことが可能で、東京からだと5時間弱で到着する。磐梯西線に乗って移動している際は、バブルの名残のような温泉街の景色をいくつも目にすることになるので、『こんなところに本当にホテルはあるのか』と心配になると思うけれどちゃんとあるので安心してほしい。著名な建築家三名が築40年の別荘をリノベーションして作ったというこのホテルは、自然に囲まれた山の中にあることも相まって、まさに何もしないをするにはうってつけの場所となっている。



アアルトでは複数の異なるタイプの部屋を選ぶことが可能だが、僕は別館の105号室を推したい。まずアアルトの宿泊は本館と別館から選択可能なのだが、別館は全ての部屋が温泉の部屋風呂付きになっている。しかも部屋の目の前には沼地をはじめとした湿地帯が広がっており展望も良好で、とりわけこの105号室からの眺めが一番気に入った。庶民の僕にはなかなかパンチの効いた宿泊費だったけれど、福島の美味しい食材とお酒をふんだんに楽しめる食事二食(今でもたまに夢に出てくるくらいには美味しかった)付きで、かつ自由気ままに温泉に入り放題でこの値段なら、ちょっと奮発してしまおうかという気持ちにはなる。滞在中の殆どの時間は写真の椅子に座って過ごした。本を読んだり外の景色を眺めるのには最高のコーナースペースだったと思う。ちなみに温泉には5回入った。


館内も派手さは無いが落ち着いたしつらえで、メンテナンスが行き届いた空間がとても良い。サービスも過剰ではなく適度に放っておいてもらえる距離感が僕にはとても有り難かった。



ホテルの目の前の湿地帯を散歩することが出来るのも良かった。4月に行ったのにも関わらず残雪があることからも気温感は察して欲しいが、冷たく澄んだ空気が深呼吸をするにはうってつけだった。散歩→温泉→読書を何度かキメれば、きっと僕みたいに心からリラックス出来ると思う。

昼間の景色も良いけれど、街灯が一切ない場所で過ごす夜の時間もまた格別だと思う。外を見ても暗闇だけで何も見えるものなんてないけれど、それでもずっと窓から景色を眺めて過ごした。

NIPPONIA 鞆 港町(広島)
NIPPONIAという名前のホテルをご存知の方は沢山いると思う。全国津々浦々にある歴史的にも価値がある古民家を改修し、一棟貸しで宿泊出来るホテルにしたのがNIPPONIAだ。僕は広島の鞆の浦にあるこちらの宿泊施設を利用して以来その魅力にハマってしまい、その後も機会があれば全国のNIPPONIAに滞在するようになった。まず何が良いかというと宿泊場所がとても魅力的で、リノベ前の建物の雰囲気を活かしつつ、快適に過ごすことの出来る塩梅に整えられた空間が素晴らしい。しかもそれぞれの宿泊場所によってコンセプトが異なるしつらえがなされているのも面白い。宿の中で快適な時間を過ごしたいがために旅行する僕にとって、NIPPONIAのこの提案方法にはとても惹かれるものがある。その土地との共生をコンセプトに掲げているので、現地での職業体験等アクティビティも豊富だけれど、僕は部屋から一歩も出ずにお籠りをキメた。こんなに良い空間を味わい尽くさないなんて勿体無いが過ぎる。



僕がこの時に泊まったNIPPONIAは広島県鞆の浦にある。鞆の浦は海運の要地として発達した歴史がある町で、町中を歩いていても潮の香りが漂うような土地だ。観光地としても有名で、大通りは多くの人で賑わっていたが、僕が宿泊した場所は観光地からはかなり距離を置いた山の中腹で、人の気配も殆どしないような場所だった。とても良い。


NIPONIA 鞆 港町は複数の宿泊場所があり、自分好みの宿に滞在出来る。僕は江の浦を選んだ。というよりもここに泊まりたくて遥々広島まで来たようなものだ。言い忘れたが鞆の浦も公共交通機関の乗り継ぎで行くことが可能だ。東京からだと大体6時間弱で到着することが出来る。そこまでして泊まる価値のある宿なのかというと、結論から言えば大いにあるし、なんならお釣りが返ってくるくらい価値のある時間を過ごせると思う。



この江の浦という宿は、元々は第78代内閣総理大臣の宮澤喜一氏の別荘として建てられたものをリノベーションしている。外観も内装も当時の面影を残しつつ、快適な滞在ができるように手が加えられている。ベッドリネンや花器もこの土地のもの。風呂は檜風呂だった。細部まで美意識と配慮が行き届いていて隙がない。



江の浦に泊まりたかった一番の理由が、この二階からの展望だ。椅子二つが並ぶ窓からは、鞆の浦の港町の景色が一望出来る。高台の立地にあることもあってか遠くの景色がよく見えるし、鳥の囀りや船のエンジン音に耳を澄ませながら何もせずにぼーっとするにはうってつけの空間だった。滞在中はほぼ全ての時間をここで過ごした。ここからの景色はいくらでも見ていられる気持ちになる。


日の出もこの部屋で過ごした。港町ということもあって朝が早い。日の出の頃には人も船も頻繁に行き来するようになっている。日の出から刻一刻と変わっていく町の姿を見ているだけであっという間に時間が過ぎていく。人生で5本の指に入るくらい気持ちの良い朝だった。

水尾之路(広島)
尾道滞在中に3日間お世話になったのが水尾之路。写真からも見てとれると思うがしつらえがとても魅力的で、尾道に来るのであればこちらに泊まりたいとずっと思っていた。インスタグラムで初めてこの宿を見つけた時には度肝を抜かれたけれど、実際にその空間で過ごすことが出来るなんてより一層ワクワクしてしまう。予約方法は公式HPのメールからのみというストロングスタイルながら、メールでのやり取りを重ねていくとオーナーの人柄が何となく分かるようになると思う。僕はとても好感を持った。こんなに丁寧なメールをくれる人なら、きっと宿でも過ごしやすいのだろうなと思っていたら、期待以上に快適な時間を過ごせた。




尾道だとスタジオムンバイによるLOGや、ONOMICHI U2にあるHOTEL CYCLEが有名どころかもしれないけれど、宿に篭りつつしっぽりと過ごしたい僕にはこの水尾之路の塩梅がとてもしっくりきた。宿泊時にはコツが少し必要な場所なので、気になる方は訊いてほしい。

yubune (広島)
尾道からしまなみ海道を自転車で爆走して四国まで行こうとしていた際に立ち寄った生口島にあるyubuneは、自転車をそのまま持ち込んで宿泊できるサイクリストに優しい宿。生口島があまりにも居心地が良かったことが原因で、結局しまなみ海道は走破せずに島でしばらく滞在することにした。生口島は若い方の移住者も多く、面白い個人店も沢山ある。島ながらも外に開かれた空気感が心地よく、この空気が昨今観光地としても人気の理由なんだと思う。その生口島にあるyubuneは名前の通り、元々は島にあった銭湯を改築して宿泊施設にした宿だ。ここの魅力はなんと言っても風呂とサウナで、青いタイル張りの銭湯と、小さいながらも抜群に気持ち良いサウナに、滞在中は僕は何度も癒された。自転車を漕ぎ続けたランナーズハイの状態だからか、はたまた旅先にいる精神的な高揚感からか、僕はいまだにここ以上に気持ちの良い銭湯とサウナを他に知らない。それくらい気持ちの良い時間だった。生口島はレモンが名産で、ととのいスペースの給水もレモン水なのがニクい。細部まで細やかな配慮がされているのも嬉しく、今でも記憶に残る滞在だった。





島内を自転車で爆走して、yubuneで宿泊して風呂とサウナを堪能しつつ、近所にあるSoilでご飯を食べる生活を数日続けると、身も心もリフレッシュしていくのを感じるはず。生口島は推せる。そしてやっぱり瀬戸内海は良い。穏やかな瀬戸内ブルーの海を見ているだけでも得られる幸せが確かにある。しまなみ海道を使わなくても尾道から生口島へは船で行くことも出来るので、是非一度行ってみてほしい。そしてどうせならyubuneでひとっ風呂浴びてみてほしい。

sazare(群馬)
何もしないをするのに、おそらくこれほどうってつけの宿はなかなか無い気がする。群馬県の妙義山の中にあるsazareは、山の中腹にひっそりと隠れるようにして建つ民家をリノベーションした宿だ。妙義山って何処?という人はイニシャルDを読んでほしい。妙義ナイトキッズの本拠地が妙義山だ。中里の名言『妙義の谷は深いぜ』の、あの妙義山だ。


公共交通機関でも行こうと思えば行けるが、生半可な気持ちで行こうとは思わないでほしい。本数が少ない在来線に揺られ、更には最寄り駅から宿へは徒歩で50分ほどかかる。そしてこの徒歩の大部分は登山になる。宿が山の中にあるのだから致し方ない。宿には備え付けのキッチンはあるが食事は出ないので、自分で食料を調達する必要があるが、最寄り駅から宿への道すがらにコンビニなんて気の利いたものは無い。近所(徒歩15分)のところに道の駅はあるが、入手出来るのは野菜や蕎麦といった食材が主だということも注意してほしい。僕は3泊の滞在中ずっと野菜と山菜と蕎麦生活をしていた。美味しかったんだけどね。流石に肉が食べたくなった。
嫌なことばかり書いたが勿論良いことも沢山あって、例えば宿への道すがらは咲き誇る花を愛でながら歩くには最高だし、行きにくい立地にある宿ということはそれだけ人のいない場所にあるということにもなる。なるべく人の気配のない場所でリフレッシュしたい人間にはうってつけだ。




宿に滞在中の三日間の殆どは外の景色を見て過ごしていた。滞在した5月の妙義山は蒸し暑さはなく、山特有のひんやりとした空気を楽しむことができた。天気がコロコロと変化するのも山ならではで、雨が降ったり晴れたりを繰り返す窓の外の風景を見るともなしに見てはのんびりしていた。部屋の隅々には『おこもりスポット』よろしくソファや椅子が絶妙に配置されていて、そこに座りながら読書をすると頗る捗ることも書き記しておきたい。ごろんと横になって微睡むにもうってつけだ。


宿にはウッドデッキがあり、そこで焚き火を楽しむことも出来る。夕方から夜にかけては焚き火をして過ごした。宿の近辺は木々が風に揺れる音と鳥の声以外は本当に一切の音がしないので、だからこそ焚き火で木が爆ぜる音がより一層記憶に残っているのだと思う。
長々と書いてきたが、僕のおすすめしたい宿は今のところこれで全てだ。これからもきっと面白い宿を見つけたらそれ目当てで旅に出ると思うので、またストックが貯まったら記事にしてみようと思っている。
