靴の話をしよう

『頭からいくか足からいくか』

別にたい焼きの話をしているわけではない。服装を決める時の順番の話をしている。その日の服装を決める時に、着るトップスから決める人もいれば、履く靴から決める人もいる。新しく買った服に初めて袖を通す場合や、悪天候の日だからこの服以外は選択肢がないという場合以外の『極々ありふれた日常』の中で服を選ぶ際は、僕はトップスからコーデを組む人と靴からコーデを組む人の2つの派閥があると思っている。

これに対してたくさんの意見があることは承知している。スタイリングは個ではなく全体で捉えるから、アイテム単体では見ないという人もいるだろうし、同じ格好しかしないので、日々のスタイリングという概念がないという人もいるだろう。パンツや帽子やベルトに愛着があり、僕が想定した以外の部分からスタイリングを組む人だっているのも分かる。でも申し訳ないがこの文章内ではそれらの価値観は拾わない。今日僕が書きたいことの焦点はそこではないし、ありとあらゆる価値観を満足させるように文章を作成すると、脇道が多くなって本筋が捉えにくくなってしまう。世の中に数多ある価値観のうちの一つくらいの価値観で読んでもらえたら嬉しいし、決してあなたの価値観を蔑ろにしたいわけではないので、どうか目くじらを立てないでほしい。

 

 

結論から言うと僕はトップスからスタイリングを組む。その日の気温や天候、TPOに合わせて服を選ぶ際に、まずはトップスを選ぶのが一番バランスが取りやすいからだ。その後にトップスの素材や色、ボリュームに合わせてどのパンツを穿くかを決め、最終的に上下のスタイリングに合う靴を履く。靴は僕にとって主役ではなく脇役であって、スタイリングのバランサーとして捉えているフシがある。僕とは逆で靴からスタイリングを組んでいく人が、沢山の種類の靴を所持しているのを僕は今までに何度も見てきた。靴が主役なんだから当然靴の足数は増えていく。当たり前のことだ。言い換えれば僕の靴の所持数がそれほど多くないことも頷ける。何を主役と捉えるかがここでも顕著な違いとなって現れてくる。

靴をスタイリングの脇役とは思っているが、バランサーという捉え方をしている以上、決して蔑ろにしているわけではないことも伝えておきたい。『足元を見る』という諺にもあるように、靴は自分が想像している以上に他者から見られているし、どんな靴を履いているのか、そして履いている靴の状態が良好かどうかで、当人の価値観や性格が見て取れることも理解しているつもりだ。だからこそスタイリングの最後に選ぶのが靴だからと言って、靴というアイテムを軽んじているわけではない。最後に選ぶからこそ、スタイリングのしんがりになってくれる靴に、僕は少なからず敬意を評しているつもりだ。

 

 

何故スタイリングと靴の話をしようと思ったのかと言うと、僕が日々の生活の中で『この人オシャレだな』と思う人は、大体の場合靴の選択が巧いと感じるからだ。履いている靴の値段は特段重要ではない。高級な革靴を履いていてオシャレだと感じる方もいるし、1,000円のビーサンを履いていてもオシャレな人はいる。前述したトップス先行でスタイリングを組む人も、靴から選んでいく人もいる。それならば僕は何をもってその人のことをオシャレだと感じるのかを書いていきたい。

僕はスタイリングのキモはバランスだとずっと思っている。『バランスの良いスタイリング』というと中庸的なものを想像されるだろうが、僕が意識しているのは寧ろその逆だ。例えば上質なウールのスラックスにビーチサンダルを合わせるようなスタイリング然り、ハーフパンツにウエスタンブーツを合わせてしまうスタイリング然り、文字にすると完全に二極化したアイテムどうしを組み合わせてもバランスを取れてしまう人を、僕はとてもオシャレだと思う。同じスタイリングをそのまま真似しても完成度が雲泥の差が出る。その違いは単純に経験値の差で、アイテムそれぞれが持つルーツや、そのスタイリングが興盛を極めていた時代のカルチャーを知っているかどうかが、着こなす上での完成度に直結するからだ。王道を知らなければ外すことは出来ない。どこまで外してもバランスが破綻しないかの見極めは、きっと王道を知る人にしか出来ないもので、だからこそ単なる模倣との間に如実な差が出てくる。これはファッションに関わらず世の中のありとあらゆることに言えると思うのだけれど、どうしてことファッションにおいては年々表層化した模倣合戦ばかりが続くのかが、僕には未だに理解出来ない。

 

 

話を戻す。オシャレだと思う人は靴の選択が巧いという話の続きだ。オシャレだと思う人の格好を見ていると、スタイリングの中でのバランスを取るために靴を選んでいるという本人の意志を如実に感じることが多い。特にそれがよく分かる瞬間がスタイリングの外しとして靴を履いている時だ。前述したように外しがスタイリングとして成立するかどうかは、着ている服の文脈理解が不可欠だ。そして外すためには王道の理解がなくてはならない。それらを理解しているからこそ、自分のスタイリングの外し(=違和感)として靴を機能させることが可能になる。

まとまりすぎたスタイリングは中庸で、良くも悪くも記憶に残ることはあまりない。王道のスタイリングには魅力はあるだろうが、ルールに則ってしまえばそれは誰にでも出来る服装なので同じようにあまり記憶には残らない。王道を知っている人が王道を崩すときに自我をほんの少しだけ覗かせることが、僕は本当の意味での『外し』だと思っている。スタイリングに馴染んでいない飛び道具のアイテムを身につければ外しになるわけではない。王道を知っているからこその、『ここまでなら攻めてもギリギリ大丈夫でしょう』のボーダーラインを狙っていくアイテム選びが、外しとしてのアイテム選びだと思っている。そしてオシャレな人の足元は大体の場合この外しが巧い。だからこそ僕はオシャレな人を見ると靴についつい目がいってしまう。足元を外してバランスをとるスタイリングは、何度見たってワクワクするものだ。靴の選択一つで『そう来たかー!』と唸らされたことは何度もある。

 

 

僕は夏場になると革靴を履くことが増える。理由は単純で服装がカジュアルになるからだ。繰り返しになるが僕は毎日トップスから服装を選んでいく。男性の夏場の服装のバリエーションは決して多くはない。暑ければTシャツを着て、それに合わせてパンツはデニムかショーツを穿いていく。この組み合わせだとどう逆立ちしても服装がカジュアルすぎる。若い男性がするなら良いかもしれないが、僕みたいなおっさんがカジュアル一辺倒な服装で外を出歩くのにはいささか抵抗がある。だからこそ必然的に靴はカッチリとした革靴を選ぶ。本人にとっては苦肉の策からの革靴チョイスなのだが、カジュアルな服装にカッチリとした革靴とのコントラストが人からは『外し』と捉えられて、意外と評判は悪くない。バランサーとして革靴がしっかりと役割を果たしてくれていると感じる。何となく結末が想像出来たと思うが、これだけ長々と持論を展開しておいて、結局はこの程度の価値観で服と靴を選んでいるということを、この文章を読んでくれた人には伝えたかった一心でこの記事を書いてみた。最後まで読んでくれてありがとう。